私が作るASローマ歴代選手名鑑〜アドリアーノ・レイテ・リベイロ〜


皇帝がフィクションの世界の住人になって久しい。

その世界において彼らは大抵悪役として描かれ、哀れな末路を辿る。民主主義が是とされている時代だ。それも仕方ないことだと思う。けれど私はそんな不憫な彼らをいつも好きになっていた。



アドリアーノ・レイテ・リベイロというサッカー選手がいた。



2001年8月14日スペインのサンティアゴ・ベルナベウで行われた親善試合のレアル・マドリード対インテル戦、1-1で迎えた85分、一週間前にヴァンペッタとのトレードでフラメンゴからインテルへとやってきた19歳のブラジル人のアドリアーノはクリスティアン・ヴィエリとの交代でピッチに入りデビューを果たすと8分間(5分+ロスタイム3分)という短い時間の出場ながら存在感を発揮。フリー・キックでゴールも決めてインテルを勝利に導いた。

Sky Sportによるとこのフリー・キックは178 km/hのシュート力だったそうだ。壁に入っていたインテルのニコラ・ヴェントラが思いっきり避けたのも納得である。インテルのカピターノ、ハビエル・サネッティはこの時「僕達は新たなロナウドを得た」と心で呟いたそうだ。アドリアーノは故障に悩まされていたフェノーメノのロナウドの不在もあり2001/2002セリエA第2節パルマ対インテル戦の72分からピッチに投入されリーグ戦デビューを果たすと、続く第3節のホームでのヴェネツィア戦でも57分から投入され、90+3分に決勝点を挙げ早くも得点を記録。しかしロナウドが怪我から復帰するとロナウド、ヴィエリ、ヴェントラ、カロンというFW陣を前に必然的に序列を下げてしまい公式戦15試合に出場し1得点という結果に終わるがインテル経営陣は彼が金の卵であることを良く理解しており、成熟させるためにレンタルにだすことを決めた。


2002年1月11日、インテルは2002年6月30日までのレンタルでアドリアーノがフィオレンティーナにレンタル移籍することを公式発表。アドリアーノはフィオレンティーナですぐに出場機会を得、公式戦15試合に出場し6得点を記録するもチームは降格。


翌シーズン、ロナウドがインテルに別れを告げるもインテル経営陣はアドリアーノがロナウドから直接バトンを受け取る準備はできていないと見なした。ヴィエリのパートナーにはエルナン・クレスポが指名され、2002年5月23日、インテルは共同保有(イタリア語でcompartecipazioniやcomproprietàと呼ばれる制度。現在は廃止されている。詳しくはコチラ)でアドリアーノがパルマに移籍することを公式発表。移籍金は公表されていないが一部報道では1180万ユーロとされている。アドリアーノはパルマで公式戦44試合に出場し26得点を記録することになる。


2004年1月21日、インテルはパルマからアドリアーノを買い戻し、ヤニス・ジクとイサ・エリアクゥがパルマへレンタル移籍することを公式発表。移籍金は公表されていないが一部報道ではインテルがアドリアーノの50%の保有権を買い戻すのに支払った額は1500万ユーロとされ、この移籍の背景にはパルマの深刻な財政難もあったとされる。アドリアーノはインテルで公式戦177試合で74ゴール、スクデット(4回)、コッパ・イタリア(2回)、スーペルコッパ・イタリアーナ(3回)の優勝に貢献した。




故にインテル・ファン達はアドリアーノを





Animula, vagula, blandula


Hospes comesque corporis


Quae nunc abibis in loca


Pallidula, rigida, nudula,


Nec, ut soles, dabis iocos.



小さなさまよえる愛しき魂よ 


わが肉体に仮に宿りし親友よ 


離れ去ろうとするのか


汝(なんじ)は今や青ざめて凍りつくわびしきあの場所へ 


たわむれに心を踊らせた日々を思い出すこともなきあの場所へ



日本語訳は 自分の功績を記録しなかったハドリアヌス | 本村凌二 | テンミニッツTVより


という辞世の句を残したことで有名な古代ローマ皇帝プブリオ・エリオ・トライアーノ・アドリアーノ:Publio Elio Traiano Adriano(イタリア語名、ラテン語名だとプブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス:Publius Aelius Trajanus Hadrianus)にちなんで


インペラトーレ(Imperatore)、すなわち”皇帝”と呼んだ。




これは私と"皇帝”の物語である。



アドリアーノ・レイテ・リベイロの獲得をASローマが正式発表したのは2010年6月9日でした。


彼はいわゆるビッグ・ネームでした。私はビッグ・ネームの獲得にワクワクしていたけれど少なくとも日本のローマ・ファンの中には彼に期待しない人達もいました。


なぜなら”皇帝”と呼ばれた彼は”悪童”へと変わっていたからです。


転落の切欠は2004年4月8日に出されたリオ・デ・ジャネイロでアドリアーノのお父様であるアウミールさんが急死した旨を告げるインテルの公式声明でした。


リオ・デ・ジャネイロの北にある裕福ではない地区のコンプレクス・ド・アレモン(Complexo do Alemão)のファヴェーラ(貧民街)、ヴィラ・クルゼイロ(Vila Cruzeiro)で生まれたアドリアーノのお父様であるアウミールさんはファットリーノ(企業やホテルの使い走り、電報・速達の配達係り)として働いていました。ところがアドリアーノが10歳の時、銃撃戦が起こり、3発の銃声が聞こえたと思ったらアドリアーノのそばでアウミールさんが地面に倒れました。流れ弾が偶然アウミールさんの頭を直撃したのでした。何とか一命を取りとめたもののアウミールさんの頭蓋骨には弾丸が残されたままになりました。そのような状況下でサッカーを辞め、家計を支える事も考えたアドリアーノだけれどお母様のロジウダさん、御祖母様のヴァンダさんの協力のおかげでサッカーを続けることができました。けれどその12年後、死神が再びアウミールさんの下を訪れ、彼を連れ去ってしまったのです。


アウミールさんと非常に親しかったアドリアーノはこの訃報を告げる電話をビッラ・モレッティ杯でプレイしバーリからミラノへ帰るために空港に向かっていたバスの中でうけとったそうです。後にハビエル・サネッティは「彼はその電話で泣き叫んでいた」と語っています。


アウミールさんの死後初めての試合でゴールを決めたアドリアーノは両腕と視線を空に向ける以下のゴール・セレブレーションを見せました。


以後これは彼の標準的なゴール・セレブレーションになりました。


アウミールさんとの別れはアドリアーノを確実に蝕んでいきました。彼は次第にアルコール、女性、自動車、夜遊び、行方をくらませたりする等でトラブルを起こすようになりました。こうして彼は"皇帝”から”悪童”へ成り果てました。インテルのモラッティ会長やハビエル・サネッティは何とか彼を立ち直らせようとしブラジルで休暇を取らしたり、ブラジルのクラブへとレンタルに出したりといろいろと手を尽くしたけれど、彼が立ち直ることはなく2009年6月24日、インテルは双方合意の下4月1日を以ってアドリアーノとの契約を解消したことを発表しました。後にアドリアーノはこの当時のことを


「父の死後僕がどれほど苦しんだか知っているのは僕だけだ。僕は粉々に打ち砕かれた。そしてその後それは更に悪化した。何故なら僕は自分を孤立させたからだ。僕は寂しく、孤独で気落ちしていた。こうして僕はお酒を飲み始めた。それが僕を幸福にさせる唯一無二のものだった。なんでも飲んだよ。ウイスキー、ワイン、ウォッカ、ビール、とりわけビールだね。これでもかってくらい飲んだ。飲むことが止められなかったから僕はインテルを去る必要があった。僕はいつも練習に酔っ払ってやってきていた。どうやってそれを隠したら良いのかわからなかったし練習を休みたくはなかったけれど、そんな状態だったからスタッフは僕を医務室で寝かせるべく連れて行った。インテルは僕を包み隠しメディアには僕は故障したといっていたよ。筋肉に問題を抱えているとね。その後僕は僕の周囲にいる人達が問題だったと気が付いた。友人達はいつも他のことは何も考えずに僕を女性やアルコールと一緒にパーティへ連れて行ってくれた。ブラジルへ戻ることで問題は片が付いた。僕は何百万ユーロというお金を手放したけれど、幸せを取り戻した。」



と述べています。



インテルと契約解消後、古巣のフラメンゴに復帰したアドリアーノは母国ブラジルでプレイする喜びを取り戻しリーグ戦で19得点と活躍。そして2010年6月9日、私にとっての”皇帝”であり、期待していない人達にとっての”悪童”であるアドリアーノはASローマに降臨しました。


入団記者会見が行われ


その後スタディオ・フラミーニオにてローマ・ファンへのお披露目会が行われました。お披露目会には5000人以上のファンが集結した言われています。


このお披露目会を見たインターネット上の日本の人達の中にはオーバーウェイト気味(この時の体重は106kgだったと言われている)の彼を見て


武蔵丸じゃん


等と言って彼を馬鹿にする人がいました。武蔵丸とはハワイ出身の第67代横綱、つまりお相撲さんのことです。


私は悔しかった。何が悔しかったって「本当だ、似てる!」と思ってしまった自分が悔しかった。そしてこの瞬間不遇の者好きの私はアドリアーノ、いや”皇帝陛下”を一生応援するぞと誓ったのでした。私は”皇帝陛下”を馬鹿にする人達に対し


ど素人共め、見ていろ、 目にもの見せてくれるわ。


と心の中で嘯いていました。私には”皇帝陛下”が活躍するに違いないという明確な根拠があったのです。



・根拠その一


ど素人共が馬鹿にする為に例えた武蔵丸さんは第67代横綱です。横綱とは相撲で一番位の高い方です。そして皇帝は国で一番位の高い方です、つまり


皇帝=横綱


という図式が成り立ちど素人共がまったく”皇帝陛下”を馬鹿にできていない、それどころか彼ら自身が”皇帝陛下”を皇帝と認めていることに私は気が付いてしまったのです。


私は”皇帝陛下”の活躍を確信しました。”皇帝陛下”にはアンチすらも知らず知らずの内に認めさせてしまう力があるのだから。



・根拠そのニ


「私はアドリアーノは新たな賭けになるだろうという記事をとても頻繁に目にしたわ。私にとって彼は”確実”よ。アドリアーノはずっと私のお気に入りだったし私達はかなり前から彼を追い求めていたのよ」


これは当時のASローマの会長であったロゼッラ・センシさんが”皇帝陛下”の入団会見で述べた言葉です。ロゼッラ・センシさんはASローマに3度目のスクデットをもたらした偉大なるフランコ・センシ会長の御息女です。偉大なる遺伝子を受け継ぐ彼女が”確実”と言ったらそれは確実なのです。間違いなく、絶対に。故に私は確信しました。”皇帝陛下”は活躍すると。




・根拠その三


『僕は幸せを取り戻したブラジルにいた。僕はより成熟し均整が取れた。』


『ヴァカンスからやってきて僕は少しオーバーウェイトだけれど1ヶ月間練習をしていないのだから当たり前のことだよ。僕にはやるべき練習プログラムがありチームに合流した時には他の選手達のレヴェルになっているだろう。』


『(契約にプロとして相応しくない振る舞いをした際はクラブが契約を解消できる条項が含まれていることに関して)僕の契約書にあるもの全ては考えた上で受け入れたものだ。』


『僕は自分の価値を証明する為にイタリアに戻ってきた。』



これらは”皇帝陛下”が記者会見で述べたことの要約です。”皇帝陛下”自らがこう仰っているのです。もはや何の心配も要らないでしょう。輝かしい未来は約束されたも同然です。



輝かしい未来に乾杯!”皇帝陛下”万歳!














2011年3月8日ASローマはアドリアーノとの契約を双方合意の上で早期解消したことを公式発表しました。


・・・・・・えーっと、そうですね。こういう場合はひとまず謝罪したほうが良いのかな?


すみませんでした!ど素人は私でした。


”皇帝陛下”万歳!から2011年3月8日の空白の間に何があったかというとですね。うーん、そうですね。歴史は繰り返したとだけ言っておきます。ただ”皇帝陛下”は3度の大きな怪我を負い、忍耐強いクラウディオ・ラニエリ監督は”皇帝陛下”に幾度かチャンスを与えロゼッラ・センシ会長は12月の”皇帝陛下”のコリンチャンス移籍を阻止しなんとかローマに残るように説得したことがあったということだけは明記させてください。お願いします。




こんなはずじゃなかった!こんなはずじゃなかった!私の予定では”皇帝陛下”はASローマで得点を量産、ASローマにスクデットをもたらし、ASローマの殿堂入りも果たし、ASローマ史上最高の買い物は”皇帝陛下”だともてはやされ現在でもASローマの”皇帝陛下”として君臨し来年あたりはいよいよ退位かなぁ?と寂しく思っているはずだったのに・・・・・・。


くそー!こうなれば”皇帝陛下”がASローマに残した功績だけでも書き残してやるぞ!


【”皇帝陛下”の華麗なる功績】

・2010年6月9日にフラメンゴからASローマに加入

・移籍形態はフリー・トランスファー

・契約期間は2013年6月30日まで

・年俸285万ユーロ(税込みおよそ500万ユーロ)、チームで4番目に高額


えーっとそれから出場試合数は


リーグ戦5試合出場0得点、コッパ・イタリア1試合出場0得点


っと・・・・・。ん?なんですか?このWikipedia日本語版の情報は!なっていない!なってないぞ!データが間違っている!どこのどなたが編集しているか知らないけれど、”皇帝陛下”を舐めていますね?ここは愛する”皇帝陛下”の名誉を守るために正確なデータを書き残しておきましょう!



19/09/2010 3ª GIORNATA - ROMA 2–2 BOLOGNA ベンチ入り(ソース)

22/09/2010 4ª GIORNATA - BRESCIA 2–1 ROMA 46分から出場(ソース)

25/09/2010 5ª GIORNATA - ROMA 1–0 INTER ベンチ入り(ソース)

07/11/2010 10ª GIORNATA - LAZIO 0–2 ROMA ベンチ入り(ソース)

13/11/2010 12ª GIORNATA - JUVENTUS 1–1 ROMA ベンチ入り(ソース)

20/11/2010 13ª GIORNATA - ROMA 2–0 UDINESE 71分から出場(ソース)

04/12/2010 15ª GIORNATA - CHIEVOVERONA 2–2 ROMA 79分に交代(ソース)

18/12/2010 17ª GIORNATA - MILAN 0–1 ROMA 88分に交代(ソース)

16/01/2011 20ª GIORNATA - CESENA 0–1 ROMA 81分から出場(ソース)

19/01/2011 Ottavi di finale - Roma 2-1 Lazio 45分に交代(ソース1 ソース2)

合計 

リーグ戦5試合出場(スタメン2、途中出場3)、ベンチ入り4 得点1

コッパ・イタリア1試合出場(スタメン1) 得点0




どうですか!この完璧なデータ!これこそ”皇帝陛下”に相応しいデータというものです!


分かっています。どうせ得点が間違っていると言うのでしょう?坊や、落ち着きたまえ。これは間違っていないのです。インターネットにある情報が正しいと思うことなかれ。


この1得点は”皇帝陛下”がキエーヴォ戦で記録したものです。私はこの目でしかと”皇帝陛下”のシュートがゴール・ネットを揺らすのを見たのです。まぁ、主審のニコラ・リッツォーリさんはオフサイドやらファールやらなんやらで取り消しにしたけれど。


あれは確かにゴールでした。”皇帝陛下”は世界を統べるお方、イタリアには彼に点を決められては困るお方がいたのでしょう。私はおそらく何かしらの圧力で取り消されたとにらんでいます。イタリアに良識があるならば、必ずやゴールが認められる日が来ることでしょう。



私と"皇帝”の物語はこうして終わりを迎えました。


しかしまだ第1章が終わったに過ぎません。”皇帝陛下”はサッカー選手としての物語を終えただけなのです。サッカーなど所詮は玉蹴りです。実に下らない。どのような終わり方をしようと瑣末なことなのです!私は”皇帝陛下”に「元ローマの」と付けれるだけで満足です。たまに

このようにお姿を見せてくれるだけこの上なく幸せです。”皇帝陛下”がASローマにきてくれて本当に良かった。彼が元気に生きてくれているだけで嬉しい。



今、私は”皇帝陛下”の紡ぐ第2章が幸せな結末を迎えることを心から願っています。必ずや幸せな結末を迎えてくれるでしょう。今度こそ輝かしい未来に乾杯!”皇帝陛下”万歳!





皇帝がフィクションの世界の住人になって久しい。

その世界において彼らは大抵悪役として描かれ、哀れな末路を辿る。民主主義が是とされている時代だ。それも仕方ないことだと思う。けれどフィクションと現実は違う。現実の皇帝はそれとは真逆の終わり方を迎えるのだ。アドリアーノ・レイテ・リベイロという名の"皇帝"がそれを証明してくれる。

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