私が作るASローマ歴代選手名鑑〜アベル・シャビエル〜



貴方はアベル・シャビエルさんを知っていますか?私はアベル・シャビエルさんが大好きなのです。どのへんが好きかというとですね。以下の画像を見てもらえるかな?

ね?好きになるでしょう?どうですか?この見た目(主に髪型とおひげ)のインパクト。凄くないですか?私は人目見た瞬間から好き!ってなりました。

けれど不思議なことにいくら記憶の引き出しを開けてみてもこの思い以外何も彼のことが見つからないのです。おかしいな。好きな選手なのだから他にも何かありそうなものだけれど……。

シャビエルさんについて調べてみたら何か思い出すかも?と思い立ち調べてみると
「ファビオ・ジュニオールからアベル・シャビエルまで、ローマの最悪の買い物たち 」

と題された記事が……。

掲載されている名前を見ると十数名ほど私の好きな選手がいたのでこれ最悪の買い物たちじゃなくと最高の買い物たちの間違いじゃないかなと思いながらシャビエルさんの説明文を見てみると

アベル・シャビエル - ローマの近年の歴史で最も不評の失敗だ。2004年にハノーファーから捕まえたアベル・シャビエルは議論の必要な風貌ただそれのみ記憶される。ピッチで彼は見るに耐えないので単にひげと髪のために選ばれた色とりどりのカラーリング剤だけが原因というわけではない。

と書かれていました。

Mamma mia!!!!!

でもでも42人もの選手が選ばれている中でタイトルに名前が載ってるって凄くないですか?だって『ファビオ・ジュニオールからアベル・シャビエルまで』ってことは二つしか名前の枠がないのですよ。42人中2人ですよ。これって欅坂46、日向坂46、乃木坂46といったアイドル・グループのセンターに選ばれるみたいなものですよね?いうなればシャビエルさんは羅馬坂(ろーまざか)42のセンター、シャビエルたんマジ天使!

それはさておきGoal Italiaの判断が間違っている可能性もありますよね?真実を見極めるには一つの面だけでなくいろいろな面から考える必要があると思います。なのでローマでの出場試合数の面から考えてみます。

STAGIONE 2004-05 | 22ª GIORNATA 02/02/2005 LECCE1–1ROMA ベンチ入り

STAGIONE 2004-05 | 23ª GIORNATA 06/02/2005 ROMA1–1BOLOGNA ベンチ入り

STAGIONE 2004-05 | 24ª GIORNATA 12/02/2005 INTER2–0ROMA ベンチ入り

STAGIONE 2004-05 | 25ª GIORNATA 20/02/2005 ROMA3–0LIVORNO ベンチ入り

STAGIONE 2004-05 | 26ª GIORNATA 27/02/2005 PALERMO2–0ROMA ベンチ入り

STAGIONE 2004-05 | 27ª GIORNATA 05/03/2005 ROMA1–2JUVENTUS ベンチ入り

STAGIONE 2004-05 | 28ª GIORNATA 13/03/2005 CAGLIARI3–0ROMA フル出場

STAGIONE 2004-05 | 29ª GIORNATA 20/03/2005 ROMA0–2MILAN ベンチ入り

STAGIONE 2004-05 | 36ª GIORNATA 15/05/2005 ROMA0–0LAZIO ベンチ入り

STAGIONE 2004-05 | 37ª GIORNATA 22/05/2005 ATALANTA0–1ROMA 72分から出場

STAGIONE 2004-05 | 38ª GIORNATA 29/05/2005 ROMA0–0CHIEVOVERONA フル出場

合計リーグ戦3試合出場(内先発フル出場2、途中出場1) ベンチ入り8試合 ※ちなみにシャビエルさんのポジションは右SBをメインに左SBやCBでもプレイ可能でした。


シャビエルさん3試合しか出場していませんでした………。

Mamma mia!!!!!

でもでも選手の出場って監督さんの意向に左右されたりするから実力はあるけれど試合にでられない可能性もありますよね?このシーズンのASローマの監督という面からも確認してみないとね。

このシーズン(2004-2005シーズン)のASローマの監督は

・2004年5月28日、ASローマはファビオ・カペッロ監督が2005年6月30日までクラブと結んでいた契約の早期解消の権利を行使したことを公式発表。(カペッロ監督はユヴェントゥスに移籍)

・2004年6月1日、ASローマはファビオ・カペッロ監督の後任としてチェーザレ・プランデッリさんの監督就任を公式発表。3年契約で一部報道によれば1年目の年俸は150万ユーロ、2年目の年俸は175万ユーロ、3年目の年俸は200万ユーロ。

・2004年8月26日、ASローマはプランデッリ監督が深刻な家庭の事情(奥様の健康上の問題。)により辞任を願い出てクラブは時間をかけるように勧めたことを公式発表。しかし彼の考えは変わらず。19歳の時に23歳のプランデッリさんと結婚した1962年生まれのマヌエラ・カッフィさんはこの時癌が再発(1990年代後半に乳癌が発見)しており、プランデッリさんは彼女の傍にいることを決意したのだった。この後彼女の状態は改善しプランデッリさんは2005年の夏にフィオレンティーナの監督として現場復帰を果たすが、2007年11月26日にマヌエラさんは帰らぬ人に。

・2004年8月31日、ASローマはプランデッリさんの後任としてルディ・フェラーさんの監督就任を公式発表。1年契約で一部報道によると年俸は278万ユーロ。現役時代の1987年から1992年にかけてASローマでプレイし、5シーズンで45得点をマークした経歴を持つ彼は9月12日にフィオレンティーナとの開幕戦を迎えるこの難しいタイミングでのオファーを引き受けたことについて「イタリアとASローマのことは、常に頭から離れなかった。」「ASローマには思い入れが強いだけに、このクラブに対して“No”とは言えなかった。今はただ、クラブのためにベストを尽くしたいと思っている。」と語った。

・2004年9月25日、ASローマはルディ・フェラーさんが辞任したことを公式発表。ローマは今季のセリエA開幕から4試合で1勝(1分2敗)しかしておらず、チャンピオンズ・リーグの1試合でも黒星。FCディナモ・キエフと対戦したホームでの開幕戦は、観客席から投げ込まれた物でアンデルス・フリスク主審が負傷したために前半終了時点で中止となり、その後、ディナモの3-0での勝利として扱われることになった。辞任についてクラブは慰留したが「私は特定の方法でチームを取り扱うことに慣れている。私はそれを自分のやり方でやろうとしたが、土曜日の夜(ボローニャに3-1で敗戦)の後、それが正しいものではないことを理解した。」「1人の選手のせいではなかった、彼らは皆罪を犯し、私はその責任を負わなければならない、だから私は去ったほうが良かった。クラブを助けることができる最善の方法は辞めることだと思った。」「私はミスをしたかもしれないが、選手はもっと力をださなければならない。それが私が彼らに言ったことだ。それはセリエAで行われるべきチームのやり方ではない。」「私はそれが困難であるとわかった、そして時が経てば私は決まりをつくことができたかもしれないが、時は私が持ち合わせていなかったものだった。」とフェラーさんは語った。

・2004年9月28日、ASローマはルイジ・デル・ネーリさんの監督就任を公式発表。「早く仕事を始めたい。ローマにすべての情熱を捧げるつもりだ。監督なら誰しも、トップクラブで働きたいと願っている。ローマはまさにそういうクラブの一つだ。確かに問題点もあるが、選手たちの質の高さに疑問の余地はない。実績ある選手が多く、将来有望な若手選手もいる。ここで指揮を執れることになってとてもうれしい。」とデル・ネーリさんは語った。

・2005年3月14日、ASローマは双方合意の上でデル・ネーリさんとの契約を解消(成績不振によるデル・ネーリさんの辞任)し、後任にASローマのユース・セクターの責任者をしていたブルーノ・コンティさんの就任を公式発表。彼はプランデッリさん、フェラーさん、デル・ネーリさんに次ぐシーズン4番目の監督に。

と大変な状況になっていました。一方のシャビエルさんは

・2004年2月2日、双方合意の下でリヴァプールとの契約を解消し、フリー・トランスファーとなっていたシャビエルさんはハノーファー96と2005年6月30日までの契約を結ぶ。この契約には選手が2003/2004シーズンの最後の試合後から5月31日までの間に2004年6月30日で契約を終了する権利が含まれていた。

・2004年5月26日、シャビエルさんは2004年6月30日で契約を終了する権利を行使。ちなみに彼はこの件でハノーファー96と金銭で揉め事を起こし、TAS(スポーツ仲裁裁判所)のお世話になる。

・2004年夏、ASローマにシャビエルさんが売り込まれるもプランデッリさんはこれを拒否。

・2005年1月27日、ASローマはシャビエルさんを確保し、彼は10日間の入団テストを受けるためにトリゴリアに上陸。

・2005年1月31日、ASローマはシャビエルさんと2005年6月30日までの契約を結ぶ。一部報道によると契約には1年間の契約延長のOPが付いていた。

こういう経緯でASローマに入団しました。

時系列を確認するとシャビエルさんはプランデッリさんには獲得を断られ、デル・ネーリさんとコンティさんの下でプレイしたわけですね。

3人の監督がいて3試合出場……実力はあるけれど監督の意向で試合に出れなかったとは考えづらいかな。そもそも1シーズンに3人も監督がいることはまれだと思うから普通の選手よりかはチャンスが多かったとも考えられそうだから……シャビエルさんは実力が不足していた?

Mamma mia!!!!!

でもでも夏に入団を断られたのに冬には入団を許可されるって運命的なものを感じますよね。シャビエルさんとASローマは運命の赤い糸で結ばれていたみたいな?糸すぐ切れちゃったけれど………。

どうやらGoal Italiaの判断が間違っている可能性はなさそうですね。メディアの情報を鵜呑みするのは良くないと聞いたことがあるけれどこれは鵜呑みにして良いやつでした。残念。

でも良いもん。シャビエルさんは羅馬坂42のセンターだもん。ここからは気を取り直してシャビエルさんが羅馬坂42のセンターに相応しいお方がどうか代表、クラブ、現役引退の三つの面から検証してみます。


・代表

1972年11月30日にモザンピークのナンプラで生まれ(パウロ・フォンセカさんと同じ出身)、ポルトガルに帰化したアベル・シャビエルさんはポルトガル代表選手と活躍しました。ポルトガル代表としての彼の一番のエピソードがこれです。


これは2000年6月28日に行われたUEFA EURO 2000の準決勝フランス対ポルトガル戦のハイライトなのだけれど1-1で迎えたゴールデン・ゴール方式の延長117分、背番号13のシルヴァン・ヴィルトールさんの放ったボールがシャビエルさんの左手に当たってハンドの判定に。フランスのPKとなりジダンさんがこれを決めてフランスの決勝進出が決まりました。また他の幾人かのチームメイト達が審判に凶暴になったようにシャビエルさんも抗議により6ヶ月(当初の9ヶ月から軽減)の代表での活動禁止処分を受けました。

一番のエピソードが準決勝のハンドでPK献上って…………

シャビエルさん、ドジっ子可愛い!

流石シャビエルさん少々ドジの方がファンの心を掴むということを理解しているのです。やはり彼はセンターに相応しい?


・クラブ

シャビエルさんは

Estrela Amadora (1987-1993)

Benfica (1993-95)

Bari (1995-96)

Real Oviedo (1996-98)

PSV Eindhoven (1998-99)

Everton (1999-2002)

Liverpool (2002-2003)

Galatasaray (loan 2003)

Hannover 96 (2004)

AS Roma (2005)

Middlesbrough (2005-07)

LA Galaxy (2007-08)

の計12のクラブでプレイしたのだけれど、クラブ・レヴェルでの彼の一番のエピソードは2005年8月末にフリー・トランスファーで加入したミドルスブラ時代のものになります。

2005年9月29日に行われたUEFA CUP 1回戦 2nd legクサンティ対ミドルスブラ戦後のドーピングテストにてシャビエルさんは陽性反応が出てしまったのです。

彼の尿サンプルから検出されたのは2005年世界アンチドーピング機構の禁止リストで【アナボリックアンドロゲンステロイド(筋肉増強剤)】のカテゴリに分類されたメタンジエノンという物質でした。

検出された後シャビエルさんは

・2005年11月23日、UEFA Control and Disciplinary Body(UEFA管理・規律委員会)はUEFAのアンチドーピング規則に違反しているとしてシャビエルさんに18ヶ月の活動停止処分を課すことを決定。シャビエルさんはこれを不服とし上訴。

・2005年12月25日、UEFAのAppeals Body(上訴機関)はUEFA Control and Disciplinary Bodyの決定を支持し、シャビエルさんは上訴に失敗。しかし10日間以内にCAS(スポーツ仲裁裁判所)への上訴が可能でシャビエルさんはまた上訴。

2006年1月23日、ミドルスブラはシャビエルさんとの12ヶ月間の契約を解消したことを公式発表。シャビエルさんはミドルスブラでリーグ戦4試合UEFA CUP2試合の出場に終わる。

・2006年7月CAS(スポーツ仲裁裁判所)は活動停止処分を18ヶ月から12ヶ月へ軽減。

こういう経緯を経て無所属&12ヶ月の活動禁止処分になりました。

これがクラブ・レヴェルでの一番のエピソードって…………

シャビエルさん、これはだめだよ!

やはり彼はセンターに相応しいくないかも?でも活動停止処分明けの2006年11月8日にミドルスブラは処分が軽減された点に酌量の余地ありとみてシーズン終了までの契約で再雇用してくれているのですよね。それに最近は薬物でアイドルの方が問題になることも多いし、時代を先取りし過ぎただけかもなのです。ある意味アイドル適正がある?


・現役引退

シャビエルさんは2009年12月23日に現役を引退しました。またシャビエルさんはフルネームでアベル・ルイス・シルヴァ・コスタ・シャビエル(Abel Luis Silva Costa Xavier)というのだけれど、キリスト教からイスラム教に改宗し、名前がアベル・”ファイサル(Faisal)”・シャビエルになりました。このファイサルの由来は改宗の過程を経てアラブ首長国連邦を構成する首長国のひとつであるラアス・アル=ハイマの王室の方が新しい名前で洗礼を授けてくれたそうです。この改宗に関してシャビエルさんは

私が苦しんでいた時、私はイスラム教に平和を見出しました。私は次第に平和、平等、希望を植え付ける宗教を学びました。それが私自身を救った方法です。

私の20年間のサッカー生活の中で、私はピッチ上での活動のせいでとても非難されました。そして実際には誰も正確な私を知りませんでした。いつ爆発してもおかしくない憤激がありました。イスラム教の私の同一はガラタサライでプレーしていた2003年に始まりました。 イスラム教の国にいることが私の人生を変えました。

私はいつもアラブ世界に深い関心を持っていました。私はモザンビークで生まれ、2000万人のうち600万人がイスラム教徒で、これを忘れたことはありませんでした。 私は自分をアラブ世界の一員だと思っていました。私はクリスチャンでしたが、ポルトガル国外での生活はずっとイスラムでした。それが私が平和とバランスを見つけた方法です。 それは私に起こったすべてのものと戦う機会を与えてくれました。

と語っています。

何、これ、泣けてしまいます。シャビエルさんが仰る「苦しんでいた時」に思い当たる節が多過ぎるだけに言葉の重みを感じてしまいます。こういう話を聞くと応援せずにはいられないのです。苦しみ、挫折を味わいながら自身と向き合い成長していく、これってアイドルの王道じゃないでしょうか?

やはりシャビエルさんは羅馬坂42のセンターに相応しいお方!私一生シャビエルさんを応援、いやシャビエルさん推しでいきます!

そんなシャビエルさんは引退後、2009年のブラジルのドキュメンタリー 『Intocavel』や『Lenda Urbana』と呼ばれるホラーTVシリーズの2016年4月13日に初放送されたエピソードでブラジル人精神科医の患者役で映像作品に出演したりしつつ、2013年に監督業に転身。Olhanense、Farense、Avesという三つのポルトガルのクラブを率いたあとモザンピーク代表の技術統括責任者に就任。2019年の7月まで3年半にわたってこの役職を務め現在はフリーとなっているそうです。

すごーい!シャビエルさん頑張ってる。シャビエルさんには監督やコーチング・スタッフとしてトリゴリアのステージを目指して欲しいです。フォンセカさんが同郷だから、その関係でローマにきてくれないかな?絶対いつか私の推しがトリゴリアのステージに立っている姿がみたい!頑張れ、シャビエルさん、頑張れ!もうね


推しがトリゴリアいってくれたら死ぬ


(了)


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