私が作るASローマ歴代選手名鑑〜ジャコモ・ロージ〜

 

ローマのレジェンドの一人にイタリア人DFのジャコモ・ロージ(Giacomo Losi)さんという方がいます。

(ローマ公式Twitterより2013年2月16日のローマ対ユーヴェ戦の前にクルヴェ・スッドの前に姿を現したジェコモ・ロージさん)


ジャコモ・ロージさんは1954年から1969年までローマの選手として

セリエA  386試合出場 2得点

コッパ・イタリア 29試合 0得点

ヨーロッパのカップ戦 40試合 0得点

に出場し公式戦455試合で2得点を記録、インターシティーズ・フェアーズカップ1回(1960-61)、コッパ・イタリアを2回(1963-64と1968-69)を獲得し2012年にローマの殿堂入りを果たしました。セリエA386試合出場というのはフランチェスコ・トッティ、ダニエレ・デ・ロッシに次ぐローマ史上3番目の出場記録であり、インターシティーズ・フェアーズカップはローマ史上唯一のヨーロッパのタイトルです。

またジャコモ・ロージさんは1960-61シーズンにカピターノに就任するとローマのカピターノとして299試合に出場。これはフランチェスコ・トッティに告ぐローマ史上2番目の記録になります。


1935年9月10日イタリアのロンバルディア州クレモーナ県ソンチーノで生まれたジャコモ・ロージさんはアマチュアのヴィルトゥス(Virtus)でサッカーのキャリアを始め、ソンチネーゼ(Soncinese)でユース・プレイヤーとして一人前になると1952年に50万リラでクレモネーゼ(Cremonese)へ移籍します。彼と共にチームがセリエC昇格寸前となり、たくさんのクラブが彼の才能に気付きます。インテルは彼をインテルのユニフォームで二つのユース・トーナメントでプレイさせるべくレンタルを要求し、ボローニャも彼を獲得しようと交渉を開始しますが最終的に彼を獲得したのはローマでした。ローマはクラブへ700万リラ、ジャコモ・ロージさんに契約料80万リラ、月給8万リラを支払いました。

1955年3月20日、ローマ対インテル戦で左SB(左WBかも?)としてセリエAデビューを果たしたジャコモ・ロージさんは1958年からストッパー(あるいはリーベロもするようになる。)としてCBでもプレイするようになりました。

ジャコモ・ロージさんは身長168cmとDFとしては小柄でその柔軟性とアジリティにより当初は“Palletta(パッレッタ、小さな球の意)”という愛称で呼ばれていました。しかし彼はある試合を切っ掛けにローマ人でないにもかかわらず

“Er core de Roma(エル・コレ・デ・ローマ)”※イタリア語"Il cuore di Roma(ローマのハートの意)”のローマ方言

の愛称でローマ・ファン達から愛されるようになります。

話はTV番組で司会者のヴァルテル・キアリ(Walter Chiari)さんが

「これがそのジャコモ・ロージ、er Core de Romaです。」

と述べたことに始まります。

そしてその数日後の1961年1月8日、5万人の観客を集めたスタディオ・オリンピコでのローマ対サンプドリア戦のことでした。試合は24分にローマのエジーディオ・グアルナッチ(Egidio Guarnacci)さんが元ローマのセヴィリーノ・ロイオーディチェ(Severino Lojodice)さんとの衝突により負傷しピッチを去ることを余儀なくされる一方でロージさんもセルジョ・ブリゲンティ(Sergio Brighenti)さんとのタックルで鼠蹊部を捻挫します。後に御本人が語ったところによれば、痛みはひどく歩けなかったそうですがこの当時イタリアでは選手交代が許可されておらず、ロイオーディチェさんの負傷退場で既に10人になっていたためにロージさんはピッチに残ることを決断し、ポジションをCBからWGに移します。実質的に9人での戦いを強いられることになったローマですが前半は0-0で終了します。

後半開始早々1分も経たない内にフランチスコ・ロイアーコノ(Francisco Lojacono)さんのゴールでローマが先制。しかしその7分後にエルネスト・クッキアローニ(Ernesto Cucchiaroni)さんのゴールでサンプドリアが追いつくと後半30分にこのシーズン27得点を記録しリーグ得点王に輝くことになるセルジョ・ブリゲンティさんのゴールでサンプドリアが逆転。77分にローマも負けじとペドロ・マンフレディーニ(Pedro Manfredini)のゴールで同点とします。そして迎えた79分のローマのコーナー・キック。ロージさんはロイアーコノさんに少し前とまったく同じコーナー・キックを狙えと伝えます。ロイアーコノさんは驚きます。なぜなら前はロージさんはジャンプすることすらできなかったからです。

やってみるとロイアーコノさんは答えます。そして彼は成功しました。ロージさんは片足で誰よりも高く飛び、ヘディング・シュートでローマで初のそして決勝点となるゴールを決めました。この瞬間ロージさんはキアリさんが名付けた“Er core de Roma”となりました。


1961年1月8日ローマ対サンプドリア戦の動画


そしてロージさんはチームへの忠誠心によって永遠の“Er core de Roma”になっていきます。その彼の忠誠心を示す例があります。

1961年4月25日、ロージさんはボローニャでイタリア対北アイルランド戦でイタリア代表として出場しイタリアの勝利に貢献しました。その翌日にはローマはインターシティーズ・フェアーズカップ準決勝ハイバーニアン戦の2nd legがありました。イタリアの首都に戻るとすぐにロージさんはローマのチームメイト達の健闘を祈る為、彼らが宿泊していたエウル地区のホテルに立ち寄りました。すると当時のローマの監督であるアルフレド・フォーニ(Alfredo Foni)さんにプレイするように頼まれてしまいました。ロージさんは出場しました。しかもハイバーニアンに決勝進出を許していたであろうゴールをライン上でセーヴしました。

さらには1962年の春、イタリア代表の合宿に参加していたロージさんにインテルのスポーツ・ダイレクターであったイタロ・アッローディさんはこう告げました。

「私は今君が稼いでいる額すら知りたくない。我々インテルは君に3倍の額を支払おう。額を言ってくれ。」

しかしロージさんはこのクラブの永遠のレジェンドとして自らを捧げ、自分の名前とジャッロロッシ・カラーを結びつけるべくローマに残ることを決めたのでした。

ジャコモ・ロージさんは今年で齢85を迎えましたが、現在でもなお路上で、彼のプレイを決して見たことのないこと子供達が写真やサインのために彼を呼び止めます。

“Er core de Roma”は永遠の都の魂の深い部分に根付いているのだから。


(了)


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